嶮暮帰島の大きさや北海道本島との位置関係について、まとめたものを掲載していなかったことに気づきました。嶮暮帰島については、HP内に紹介ページを作るつもりでいたのですが、忘れていました。そこで、今日は一端これまでのまとめです。
トウキョウトガリネズミが棲む嶮暮帰島の話 翌年の嶮暮帰島はウミネコの糞で別の島に変貌する
翌年の2012年は、嶮暮帰島に6月末と9月中旬に調査に行きました。6月、島についたら写真のようにウミネコが臨戦態勢のようなお出迎えでした。草丈が伸びて、伸び草の下に営巣をしていますので、見た目にはどれくらい多くのウミネコの巣があるかは、写真では判りませんが、ウミネコがいる場所の周辺は足の踏み場もないような状態です。6月はこの部分を避けて、島の台地上に部分で捕獲調査を行いました。
9月になると巣立ちが終わっているのでコロニーは消滅しています。従って、いつもの海岸近くで捕獲調査をするのですが、その年はウミネコの糞が堆積して土ではなく、糞で埋め尽くされてしまい、歩行性昆虫すら確認できないほど環境が変わっていました。数が多いというのは恐ろしいと思いました。まだ2年目なのですが、もう土壌の表面に数センチの糞の層で固められている状況で、環境が全く変わったしまったからです。離島に海鳥のコロニーが形成されるということは、とても良いことだと思っていましたが、実は島の環境へのインパクトはとても大きなものだと知りました。
トウキョウトガリネズミが棲む嶮暮帰島の話 津波がウミネコのコロニーをもたらした
津波が嶮暮帰島を襲った3ヶ月後には、津波に襲われた場所にウミネコのコロニーができました。3年前ほどから嶮暮帰島の台地上部の北側には、ウミネコのコロニーが形成されてきていました。オジロワシが、ウミネコのコロニーに突っ込んで捕食しているところを見たこともあります。
そのコロニーが、突然海岸に移動してきました。トガリネズミの調査のためにテントを張りたいと思っても、そのような場所もほとんどなく、隙間を見つけて無理やりにテントを張りました。2011年の6月の調査はウミネコの子育ての邪魔にならないように、営巣していない場所で行ったので、1頭も捕獲できませんでした。あれだけ密集していたら、トウキョウトガリネズミも近づかないのではと思いました。こちらは、何もしないでじっとしていても、睨まれ続けて、隙あらば糞爆弾を投下してくるというように、常に威嚇され続けられました。友好的な関係を気づきたいと思っても許してくれませんでした。
トウキョウトガリネズミが棲む嶮暮帰島の話 高潮と津波の影響をうけた汀線付近の状況の推移
以下の写真を見比べてください。2005年の写真は、2007年に高潮受ける前の嶮暮帰島の汀線の状況です。エゾオグルマという植物が、高さ2m、幅2mの帯状に汀線沿いに生育していました。本来は、高さ50cmくらいなのが普通なのですが、ここでは、2m近くまで成長します。これが、防壁になって内陸の植物を守っているような感じさえ受けるような帯状に生育しています。
これが、2007年の爆弾低気圧による高潮と2011年の津波を受けて、一度は壊滅状態になるのですが、現状ではかなり回復しました。意外と津波を被った時よりも高潮を被った方かエゾオグルマの回復状況が遅かったような気がします。
トウキョウトガリネズミが棲む嶮暮帰島の話 2007年の爆弾低気圧の高潮と東日本大震災の津波
1998年から2020年間で、トウキョウトガリネズミの生息地が、海水で洗われたのは2007年3月に爆弾低気圧と2011年3月東日本大震災の津波の2回になります。爆弾低気圧の高波は汀線より内陸10m程度、津波は汀線から内陸へ70m程度まで海水が到達しています。それでも津波に比べると高潮の影響は限定的でした。
嶮暮帰島のトウキョウトガリネズミの生息地は、外海に面していませんので、元来高波の影響も津波の影響も少ないのですが、この2つは例外的に影響が大きいものでした。色々な影響がでましたが、一番気になっているのが、ハマトビムシの激減です。トウキョウトガリネズミは、これを捕食するために汀線近くまででてくると推察しています。ハマトビムシの増減は、トウキョウトガリネズミの生息数に大きな影響を与えていると考えています。
2007年以前は、一晩で墜落函の半分ほどから、あふれ出るほどまでハマトビムシが入っていることもありましたが、現在は層になるほどハマトビムシが入ったことがありません。その差は1/10程度になります。
トウキョウトガリネズミが棲む嶮暮帰島の話 東日本大震災の津波と嶮暮帰島 3 砂州が無くなった
津波が砂州を壊して土砂を浚っていってしまいました。この砂州は、かつては北海道本島と繋がっており、干潮時には歩いた渡れたそうです。嶮暮帰島は、昭和50(1975)年頃までは人が1年を通して住んでいたそうです。島では昆布干しが行われており、浜は干場として使用されていました。昭和20年頃までは、馬車でこの砂州を通って乾燥させた昆布を運んでいたそうです。嶮暮帰島での昆布干しは、重い昆布を船から上げて干場に広げるには、目の前が干場で、高低差が少なく楽だったために使用されていました。しかし、車やユニックなどの器械が普及するとともに、本島に運ぶ手間を考えたら、本島ですべての作業を行う方が効率的ですので、徐々に嶮暮帰島での昆布干しはされなくなりました。
その砂州が東日本大震災の津波で無くなってしましたが、10年経ってもほとんど回復していません。河川や近くの漁港の状況がこれまでと変わったこともあり、土砂が供給されにくくなっていると考えられます。
現在嶮暮帰島は完全に無人島ですが、平成12年(2000)まで夏場だけ1組の夫婦が住んで居ました。私が初めて嶮暮帰島に調査に入ったのは、平成10年(1998)です。したがって、当初の3年間は無人島ではありませんでした。その後、令和2年(2020)まで毎年嶮暮帰島に最低1回は調査に行っており、今年で23年目そして、無人島になって20年目になりました。そして、津波を被って10年目になる今年までの状況を改めて鑑みますと、改めて自然の力は、破壊も回復も力強いと感じます。
トウキョウトガリネズミが棲む嶮暮帰島の話 東日本大震災の津波と嶮暮帰島 2 津波の到達域の見分け方
津波の影響を調べるためには、津波がどこまで到達したかを知る必要があります。そのポイントは、下草の倒れている方向です。津波を被ると必ず引き波の影響で、一定方向に倒れるという現状が見られます。したがって、倒れている方向が一定になっているところまでが、津波が来た場所と判断できます。
地形によっては、津波の動きが変化しますので、倒れている方向が異なっているところもありますが、周辺を見回すとどのように津波が移動していったのかが判ります。
写真では、白っぽい草が倒れている範囲が津波が到達した位置を示しています。倒れている草が白っぽいのは、もともと枯れれば白っぽいですが、津波で海水を被っていますので、海水の影響でより白くなっていると考えられます。
写真をよく見ると判りますが、白っぽい草との境を見ると草の倒れている方向が周囲と異なることが判ると思います。このようにして、その線を辿っていくと津波がどこまで来たのか、波はどのように移動して行ったのかが判ってきます。
GPSによる計測ですが(誤差が大きい)、津波の最高到達地点は、標高約15mでした。
トウキョウトガリネズミが棲む嶮暮帰島の話 東日本大震災の津波と嶮暮帰島 1
嶮暮帰島でトウキョウトガリネズミを2003年に確認して、もう少しで20年になります。そろそろこれまでの記録を整理しなければと強く思い始めていました。最近は、東日本大震災から10年ということで、広く振り返りなどが行われています。それを見て、トウキョウトガリネズミの重要な生息地である嶮暮帰島も、東日本大震災の津波の影響を受けており、津波の影響から10年経過したという節目なので、東日本大震災の津波から嶮暮帰島の変化を見返して見たいと思います。
上記の写真は、上が津波をかぶった後2ヶ月後の嶮暮帰島の状況です。下が9年後の嶮暮帰島の状況です。かなり回復した様に見えますが、実際はかなり大きな影響を受けています。